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あのタワーで

1 夜景

 綺麗だと思った。他のどの建物の間にあっても独特なラインと先端が見えるだけで、何なのかが誰でもわかる有名な建物。照明に映えて朱色に見える塔を見上げる。その上には夜空が広がっているけど、星は見えなかった。夜景も見えないのかな、こんな夜は。
 チケットを買ってエレベーターの前に行くと、何組もカップルがいた。金曜日の夜だもの。当たり前かもしれない。まだ8時半をまわったくらいだから、いわゆる恋人たちの夜はこれから。そんなことを思っていたらエレベーターのドアが開いた。

 少し澄ました声の説明を聞かせながらエレベーターが意外な速さで上がっていく。ちょっとレトロなのんびりしたイメージだったのに、本物は違ってたみたい。展望台に着いてドアが開くと、暗いフロアには思ったより人がいた。ざわめきと笑い声、足音、音楽。ちょっとしたカフェか、バーのような雰囲気の中を歩いて、窓に近寄った。思わず声が出た。
「ああ……こんなに明るいんだ……」
黒い空の下は光が溢れていた。まぶしいくらいの道と、ビルの窓の灯りがずっと続いていた。星は見えなくても、それを補うように輝いている。

 ゆっくり、人並みを縫って、夜景を見る。幾つもの高いビルが視界の中で影と光を見せて自分を主張している。中には名前のわかる建物もあった。様々な色の窓の灯りに彩られた建物は真夜中まできっと眠らないんだろうな。それとも、真夜中になって初めて目覚める窓もあるのかな。
 1周してからカフェのメニューを眺める。お酒、ないんだ。残念。アイスコーヒーを頼んでから、ウインドウを見て、空腹なことを思い出して、ホットブリオッシュを頼んだ。カップルを避けてなんとかスタンドの端に席をとる。ごめんね、邪魔しないから。

 一口飲むと体に染み込むようだった。さっきの店では水を一口だけだっけ。あの店、気に入ってたのにしばらく行けないかも。これ、美味しい。ぼんやりと夜景を眺めながら、食べていると、少しずつ体が普段の自分を思い出していく。怒りなのか、悲しみなのか、強い何かにかられて見失ってしまった感覚が戻ってくるのがわかる。
「お腹空いてると、ろくなこと考えない、だっけ……ほんとだ」
 食べ終えたブリオッシュの包み紙を折り畳んで、きゅっとつまんで絞ると、小さなリボンの形になった。コーヒーはまだほとんど残っている。濃いめでよかったな。いつもなら使うガムシロップもミルクも入れずに少しずつ啜る。

 たえまなく光が動いている。こんなに広かったんだった、この街は。こんなに光が溢れてて、人が、そう、大勢いて、あの灯りの窓の向こうには人がいて、泣いたり笑ったり怒ったり。テレビドラマみたいなことが本当に起こってる。
 さっきのもそうだもんね。周りの人がちらちら見てたっけ。デートしてた人もいたのに災難にあっちゃった気持ちになってたのかな。でも、しょうがなかった。もう終わってるってわかっちゃったら、顔も見てられなかった。大人気ないって今なら思うけど。

 少しずつ、人が減っていく。飲み終えたコーヒーカップを捨てて、ようやく空いてきたフロアを歩く。透けている床を覗きこむと、灰色の広場と車と小さく動く人がミニチュアのように見えた。そうっとそこに立ってみる。不意に笑いがこみ上げた。あの人、きっと嫌がって、ここにこうして立つこともしない。案外恐がりだもの。
「だから、だったのかな」
 このまま、すうっと体が落ちていってしまえばいいのに。古い殻を脱ぐ生き物みたいに、あの人と一緒にいた私の殻が落ちていけばいいのに。こんな気持ちもそのままくっつけて。

 もうフロアに残ってるのはぴったりと並んで囁きあっているカップルだけ。時計は9時半を指していた。終わりが近いことを知らせる声が聞こえた。もう一周。光の量は変わらず、まだ眩しい。溜息が出た。多分、大丈夫。
 エレベーターを降りて見上げた。お店を出てたまたま目に入っただけだったけど、来たのは正解だったみたい。うん。深呼吸をして、地下鉄の駅に向けて歩き出した。

<終>




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