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あのタワーで

3 雨 

 普段なら光をまき散らしたような夜景が、今夜は雨ににじんでいる。雨は強弱をつけて当たりながら窓の広い全面を流れ落ちていた。いつもの週末なら多くのカップルと観光客とで夜でも混んでいる展望台フロアも、今夜は数組のカップルの貸し切りのような状態だった。一人で来ているのは、美穂の他にほんの何人かで、フロアに点々といるだけだったので、よけいに人の少なさを感じさせた。

 カフェでホットのコーヒーを飲みながら、美穂はずっと窓を見ていた。この1年、わけもなく毎月、このタワーに来ていた。
 それが今夜だったのは、ふと昼休みに思いついたからだ。定時で仕事を終わらせ、そのまま地下鉄に乗り、駅から外に出たときはまだ雨が降っていなかった。濃い灰色の雲がまだらな色合いで空を覆っていただけだ。折りたたみの傘は持っていたから、気にすることなく展望台へのエレベーターの前に立った。
 なぜ来てしまうのか、自分でもわからない。故郷にいた頃、こんなふうに景色を見に、どこかへ行ったことがあっただろうか。当時の恋人とのデート以外にはなかった気がする。とりとめのないことを思いながら、コーヒーに口をつける。

 ふと視線を感じて左の方を見ると、男性と目が合った。テーブルを一つ挟んだ向こうのテーブルでその人もコーヒーを飲んでいる。かすかに笑みをたたえていた男性は、気づかれても美穂から視線を外さなかった。顔は知っていた。少し居心地が悪いような、落ち着かないような気持ちになって、美穂は顔を戻した。
(これで4回目)
 おそらく自分より年上のその男性を、美穂がそうと知って見るのは4回目だった。12回のうちの4回。決して少ないとは言えなかった。
 ここ以外で見かけたことはなく、話をしたこともない。何回か目があったことがある程度の、顔見知りという段階までも至っていない相手だった。だが、美穂は淡い親近感のようなものを最近ではもっていた。それは、賑やかな人々の中で、その男性がいつも一人でひっそりと夜景を見ていたからだった。

 視線を戻した窓を光がにじみながら、雨と一緒に流れ落ちている。時計は8時を指していた。温くなったコーヒーを飲み終えて、席を立った。男性とまた、目が合った。
(ずっと見てたの?)
 それは本当なら不快に思ってもおかしくないことだったが、美穂が感じたのはむしろその逆に近かった。見つめあっていた。その沈黙を破ったのは男性の方だった。
「また会いましたね」
「そうですね」
 外見よりもずっと落ち着いた印象の声に自然に答えていた。男性がゆっくり立ち上がって、1、2歩前へ出た。
「今日は無理だろうと思っていました。天気予報が雨だったので。でも、勘も信じてみるもんですね」
「勘ですか」
「そうです。なんとなく、来た方がいいような気がしました」
 そう言って男性が見せたのは、さっきの笑みよりも少しくだけた笑顔だった。美穂の口元がほころんだ。それはお互い、今まで夜景を見ている時には見られなかった表情だった。

「ここ、お好きなんですね」
「ええ、多分」
「多分?」
 美穂の言葉が意外だったらしく、繰り返してから、ふと思いついたように付け加えた。
「もしかして聞かない方がよかったのかな。つい聞いてしまいましたが、失礼をしてしまったなら」
 少し後悔したような口調で呟いて、美穂を見つめた。男性は美穂より頭一つ大きいぐらいだったが、かなり近くに来て初めてわかるくらいのふんわりとした香りをうっすらとまとっていた。かすかなやや甘い香りが鼻をくすぐる。そういえば、今までの恋人たちにこんなふうに香りを感じたことはなかったと思い出した。彼らは自分を主張するように流行の香りをまとわりつかせていて、移り香が苦しくなる相手さえいたから。

「いいえ、何も、ないんです。ただ、なんとなく来てしまうだけですから……でも、なんだか落ち着くんです、ここに来ると。やっぱり、好きなのかも」
 相手の顔を曇らせたくないと思った。嘘ではなかった。男性はほっとしたような表情を浮かべてから、窓の外を見やった。雨はさっきよりも少し弱くなっていた。
「もう少し、雨を見ていきませんか。ここで、一緒に」
 美穂に申し込んだ男性の表情は穏やかだった。拒絶されても、おそらく、恨み言を言うことはないだろうと思わせる、静かな表情だった。
「はい」
 考えていたのではなく、答えていた。微笑みがそれに答えた。

 雨が流れ落ちる窓を見ながら、二人は並んでいた。そこは、美穂がよく立っていた場所だった。
「こんなふうに見えるんですね、雨の日は」
 感慨深いというふうにも聞こえる口調だった。つられて、顔を見上げると、男性が気づいて美穂を見つめた。
「雨の日に来たのは初めてなんですよ。いいものですね」
「ええ……私もです。きれい……」
そう言ってから、美穂はくすっと笑った。
「こんなにきれいなのに、貸し切り」
 フロアを男性が見渡すと、確かに他にはカフェの店員がいるだけだった。
「本当だ」
 男性が目を細めた。

 最後のエレベーターの中で二人は寄り添っていた。下のフロアにも人の姿はほとんどない。雨はあいかわらずの降りだった。
「地下鉄ですか」
「ええ……貴方は」
「同じです。でも、何か、少し食べたい気分なんですが、どうですか」
 最初よりもずっと近い距離で尋ねられた。
「そうですね。そうしましょうか」
 視線が絡みあった。人目がまだあったのが幸いだった。なければ、美穂は抱きついてしまっていたかもしれなかった。
「行きましょう」
 雨の中へ傘が歩み出る。それは1本しかなかった。

   <終> 


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