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オルゴールの夜

9 新島さんの一言


 長谷部さんが家まで送ってくれることが続いてまもなく、急な雨のせいで長谷部さんを家にあげた。長谷部さんは普通の友達のようにふるまってくれた。今思うと、私の緊張に気づいて、気を使ってくれたのかもしれない。
 風が弱くなって雨が小降りになると、長谷部さんは別れの挨拶を言って、テーマパークの時のように優しいキスをして帰っていった。部屋の中にいた時の雰囲気がそうじゃなかったから、まさかキスされるとは思わなくて驚いたけど、その夜ずっとどきどきしてた。
 私と長谷部さんの間には年齢や立場というハードルがあるのに、長谷部さんはさらっとそれを越えてくる。そして、長谷部さんと親しくなるほど、最初に似てると思った章ちゃんとも、小野寺さんや先輩とも違う部分がわかって、それは私には、落ち着くこと、楽しいことが多くて。
 夕食後、刺しかけの刺繍の続きをしてると、携帯から「ゆりかごの歌」が流れる。あの時以来、長谷部さんの着メロにしていた曲。それをいつのまにか期待してしまってる。
 それから、2、3回、二人で部屋で過ごし、長谷部さんは一度も泊まっていかず、キスだけを残して帰っていった。ほっとしてる自分がいた。つきあってるんだから関係があってもおかしくない、と思いながら、まだ、踏み出せなかった。
 そんなある日、新島さんにお昼を誘われた。
 新島恵理さんは長谷部さんと同期で、総務の後輩。はきはきしてて明るくて、お局と呼ばれて敬遠されても仕方ない私にも普通に接してくる。少し、薫ちゃんと似てるかもしれない。そういう物怖じしないところ。羨ましいなと思う。
「ちょっと篠田さんのお弁当、興味あるんです」
 そう笑顔で頼まれると、断る理由もなかった。新島さんは、せっかくだから屋上にと言い、久しぶりに屋上に出た。だいぶ強くなった日差しを気にしてか、人が少なかった。
「篠田さん、本当に小食なんですね」
 食べ始めてしばらくしてから、新島さんが納得顔で言った。確かに新島さんのお弁当は今時の若い女性にしては大きいような気がするし、私のお弁当は小さめだけど。
「実は、何回か、長谷部君に聞かれてるんです。女の人ってあんなに食べなくても平気なのか、大丈夫かって。もちろん、こっそり、他に人がいないところでなんですけど、他に聞ける人いないからって、よりによって大食いの私に聞くのは間違ってますよね。正直、羨ましいです。私、燃費が悪くて、すぐお腹空いて食欲に負けちゃうので」
 あまりに予想外な言葉だった。新島さんがからかって言ってるんじゃないのは表情でわかるんだけど。私の顔を見てから、新島さんがにっこり笑った。
「大丈夫です。ちゃーんと長谷部君に言いきかせておきますから。もうね、おかしいくらい心配してましたよ。病気じゃないか、って。自分で聞いたらって言ったら、聞けないって」
 そういえば、お店でメニュー追加されたことがあるけど、私、そんなに心配されるくらい食べてないのかな。思ってもみなかった。新島さんは箸の止まってる私を見て言った。
「篠田さん? あの、食べて下さいね。すみません、急にこんな話して。失礼かなあとは思ったんですけど、長谷部君があんまり、しつこくて。でも、あの長谷部君があんなに心配性だったとは」
 くすくす笑いながら、新島さんは箸を進めていく。
 長谷部さんは一体、新島さんに他に何を言ってるんだろう。もしかして、長谷部さんと私のことを皆が知ってる? ゆっくり食べながら、もやもやしたものが胸を塞いでいく。
「篠田さん、もし長谷部君が何か、しでかしたら、言って下さいね。同期権限で痛い目見せてやりますから。彼女だからってわがまま許しちゃだめですよね。そう思いませんか」
 「彼女」という言葉がすらっと新島さんの口から出た。思わず顔を上げた。新島さんと目が合った。
「つきあってるんですよね? 長谷部君と」
「それは、あの……」
 新島さんが周囲をちらっと見てから声を潜めた。
「大丈夫ですよ。多分、知ってるの、私だけです。私は長谷部君から聞き出したから、知ってますけど、篠田さん、本当にちゃんと公私分けてますよねえ。その辺、いざという時のために私も見習わないとって」
 そこまで言ってから、新島さんが怪訝そうな表情になった。
「篠田さん? どうかしました? あの……?」
 新島さんの顔色が変わった。潜めたままだけど、焦ってる声。
「うわ、てっきり、そうなんだと思ってました。長谷部君もそれらしいこと言ってたし……すみません。長谷部君が勝手に思い込んでたんですね。すみません。変なこと言っちゃって」
「あ、いいえ、気にしないで」
 なんとか笑って答えて、食事に戻った。黙々と食べ終えてから、まだ都合悪そうな様子の新島さんが最後に言った。
「あの、篠田さん。私が言うのもなんですけど、長谷部君が勘違いしてるなら、早めに釘刺しておいた方がいいですよ? 本気みたいでしたから……余計な話ですけど、私の友達で、似たようなことでトラブルになった人いるんです。篠田さん、本当に、今日はすみせんでした。今度はもっと楽しい話で、また、お昼させて下さい」
「ええ……私こそ迷惑をかけたみたいで、ごめんなさい」
 なんとか笑顔で答えられたと思う。新島さんがほっとした顔になってたから。悪気があったわけじゃないのはわかってるから、新島さんを責める気持ちにはならなかった。
 その日の午後はなんとか仕事をこなし、帰社が遅くなる予定の長谷部さんが戻ってくる前に会社を出た。
 一人で考えたかった。つきあってる、つきあってない、好き、好きじゃない、彼女、彼女じゃない……。幾つもある二択が頭の中で渦巻いていた。
 つきあって下さいと言われて始まって、つきあってるはずだった。長谷部さんのことを自分が好きになりかけてるのも感じてる。でも、新島さんに即答できなかったのは……つきあってると言えなかったのは。
 その夜、長谷部さんから電話がなかったのがありがたかった。


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