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オルゴールの夜

20 懺悔


『今日の夜、仕事の後、時間があったら、八点鐘に来て下さい。篠田さんに話したいことがあります。迷惑かもしれませんが、お願いします。』
 初めの頃のような文面のメール。話したいことって何? 橋川さんたちとのこと……言い訳……謝罪……それとも、私への非難。あの時、申し込みを受け入れていなければ、長谷部さんが私に一方的に別れを言われるなんてことにはなってなかった。そのことへの恨みごとかもしれない。私みたいな年上のお局様のことを好きだと思ってしまったことを今になって後悔して……。
 そんな人じゃないと思ってしまうけど。だからこそ、何の話なのか、わからなくて、返事を返せなかった。
 早めに仕事を切り上げて会社を出た。長谷部さんはまだ帰社してない。帰るふんぎりもつかず、結局、迷ったあげく、八点鐘に向かった。
 もし、責められたとしても、それは私が受けなくてはいけないことだと思ったのが半分。長谷部さんともう一度、会社の外で会いたかったのが半分。こんなに未練がましかったんだ、私。笑ってしまう。
 八点鐘のドアを開けると、金曜日の夜のせいか、この前の席しか空いてなかった。仕方なく座った。ウェートレスには注文を待ってもらって。
 それから10分もなかったと思う。長谷部さんが店に入ってきて、私を見つけた。緊張した顔で向かいに座った。すぐにウェートレスが来て、注文をとっていった。
 顔が上げられない。長谷部さんが何を言いたいのか、どう思ってるのかを考えると怖くて、とても顔を見られなかった。来なければよかったのかもしれない。
「ありがとう、来てくれて。どうしても話したいことがあったんだ」
 いつもより固い声が聞こえた。そこに、ウェートレスがコーヒーを持って来た。変に喉が渇いてた。目の前のコーヒーに口をつけて、苦みにはっとした。いつもなら砂糖を入れるのに。そんな余裕さえ、ないなんて、私は。
「橋川さんたちの話、聞いたって言ってたけど、ちゃんと話すよ。多分、誤解してるから」
 誤解? 私がその言葉にひっかかってる間にも、長谷部さんは早口で話し続けた。
「俺さ、橋川さんに、紫子を落としてみろって言われたんだ。紫子は誰ともつきあってないはずだからできるはずだって……橋川さんが怖くて、断れなかった。つきあってもらえるとは思わなかったし、だから、断ってくれたら睨まれずにすむって思った」
 やっぱり。
 思っていたとおりのいきさつでも、本人から言われると、胸が痛かった。私が断っていた方が多分、長谷部さんにはよかった……。あの時、章ちゃんのことを思い出したりしなければ。考えもせずに、受けると返事をしていなければ。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 そう思いながら、「紫子」とまだ呼んでくれることを嬉しいと思ってしまうなんて、私、なんて馬鹿なんだろう。
 長谷部さんがコーヒーを飲んで、はあっと息をついた。
「だから、つきあうって言われて、正直、焦ったんだ。とにかく、なんとかしなきゃって思った。橋川さんにもせっつかれて」
 声に苦いものが混じっている。それは、懺悔と言ってもいいようなもので。
 橋川さんの顔が浮かんだ。あの人は、なんでここまで長谷部さんを苦しめるの? 冗談にもならないような、こんなことをして。人気者で、女性にもてて、仕事もできて、社内でも羨ましがられるくらいなのに、あの笑顔の裏で、こんなにも冷酷なことができる。あらためて怖いと思った。
 でも、そんな橋川さんに長谷部さんは従わないといけない立場で、私みたいに視界に入らないようにして避けてはいられない。命令された時、どんなに驚いて、苦しかったんだろう。長谷部さんの性格なら、本当はそんな嘘の告白なんか、おふざけでもしたくないはずなのに。
 私が断ることに望みをかけて……それをずるいとは、とても思えなかった。私が同じ立場でも、きっと逆らえなかったはずだから。


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