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オルゴールの夜

18 夜のオルゴール


 部屋に入った時、床に光がさしていた。きちんと閉まっていなかったカーテンの隙間から、細い光の筋が部屋の床を仕切り、部屋の中はうっすら明るかった。
 照明をつけないまま、バッグを置き、低いテーブルの横に座った。電車の中でなんとかこらえた涙も、もう我慢しなくていい。カーペットの上の月光を眺めているだけなのに、ただ涙が流れてくる。
『火曜日、橋川さんたちが話してるのを、聞いたの』
 あれだけで長谷部さんはわかってくれたと思う。この交際の始まりが何だったのかを私が知ったことを。私が知らない嘘で始まったとはいっても、長谷部さんの気持ちを振り回してしまった私も、橋川さんたちと共犯のようなものだと思う。思わずにいられない。
 長谷部さんの思いが嘘だとは思わない。私も好き。だけど、このまま続けていたら、いつか壊れてしまう気がして怖い。頼りない足下が崩れて、全てを失うのが怖い。
 それくらいなら、そして、長谷部さんを今、しがらみから解放できるのが私だけなら、と思った。そう思って自分から別れると言ったのに、後悔しちゃいけないのに。
 バッグから振動音がした。この間隔は長谷部さんの電話の音。取り出して開いてみると、「長谷部さん」という表示と着信のアニメーション。手の中で携帯電話が震える。止まる。そして、また震える。何度か繰り返して、止まった。
 充電器に置こうとして、気づいた。かおちゃんから電話がかかってくるかもしれない。かおちゃんはこんな時に、決まって電話をくれる。まるで、私が苦しいのを知ってるみたいに。
 マナーモードを解除してから、照明スイッチをつけようとした時、アパートの階段を駆け上がる足音が聞こえ、思わず手が止まった。足音は部屋の前で止まり、インターホンが何度も鳴った。
「紫子、いないのか?」
 漏れて聞こえてきたのは、長谷部さんの声だった。そうっとドアから離れた。ドアに何かが当たる音がしたと思ったら、突然、「ゆりかごの歌」が後ろから聞こえた。充電器に立ててある携帯電話がちかちかと光りながら、オルゴールの音で歌を奏でる。
 どうして? 
 口から漏れそうになる嗚咽をこらえて、口を手で覆った。出ちゃいけない。私には長谷部さんと話す資格なんかないんだから。自分から別れると言ったんだから。こんな私なんか、嫌いになってくれたらいい。どうしてここまで来たの? 別れたくないから? それとも、私から言い出した事に怒ってるから? 
 廊下で音がした。そして、足音が遠ざかり、階段を降りるのが聞こえた。窓に駆け寄って少しだけ開けると、カーテンが夜風に揺れた。ちらっとこちらを見上げている人影が見え、反射的にカーテンの陰に隠れた。その影はしばらくして立ち去った。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 月明かりだけが照らす部屋で、私が思っていたのはそれだけだった。もう、この部屋にあの人が来ることもない。それが無性に悲しかった。


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