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オルゴールの夜

16 あと少しだけ


『おはよう。今日は来られたんだね。頭痛はおさまった? でも、まだあんまり顔色よくなかったから、無理しちゃだめだよ』
 木曜日、なんとか出社した。長谷部さんとは話せなかったけど、外回りに出ていってからメールが届いた。顔が合ったのはほんの少しの時間だったのに。
 前の日の分を取り返すためにというより、何も他に考えたくなくて仕事に集中した。午前中にもう1通、メールが届いた。
『体はどう? 無理してない? 今日も昼は外。今日ぐらい、一緒に食べたかったんだけど。残業確定だし。週末死守だー!』
 週末。
 先々週の土曜日に、初めて長谷部さんが私の家に泊まった。
 先週は映画を見に行って、ショッピングモールで買い物をして、2日間ずっと一緒だった。「本物の恋人としての初デート」と言う長谷部さんは楽しそうに笑って、手をつなぐのを恥ずかしがる私を見て、よけいにぎゅっと強く握って離してくれなくて、私は恥ずかしいのと嬉しいのとで胸がいっぱいだった。
 思えば、こんなデートらしいこと、小野寺さんとつきあった頃、何回かあったぐらいで、何年もしてなかった。恋人とのデート。こんなふうに誰かと過ごすことなんて、もうあるはずがない、したくないとさえ、思ってたのに。
 くすぐったいくらい幸せだった。
 思い出して、鼻の奥がつーんとした。仕事中、仕事中。自分に言い聞かせる。
 午後になってから、また届いたメールに返事をした。
『心配かけてごめんなさい。頭痛はまだ少しあります。早めに帰らせてもらうつもりなので、今日は会えないと思います。そのかわり明日、八点鐘でお話できたらと思っています』
 八点鐘というのは、最初に交際を申し込まれた時のカフェの名前。あれから何回も、仕事帰り、食事をしたり、お茶をしたりしたお店。始まったのがあそこで、終わるのもあそこ。それがいい。思い出がありすぎて二度と行けそうにないから。
『了解。残念だけど我慢、我慢。ちゃんと食べて、薬飲んで、寝るんだよ。先週から仕事きつかったよね。俺もばてばて。土日のことばっかり考えてる。明日は美味しいもの、食べよう』
 少ししてから返ってきたメールの中の長谷部さんは、私が明日言おうとしてることに少しも気づいてない。私の体を心配して、一緒に過ごすことを楽しみにしてくれてる。
 朝、顔を見るまでは、少しでも早く言うべきだと思っていた。でも、長谷部さんの言葉が優しくて、嬉しくて。「残業確定」という文字を見て「今日言わなくてすむ」と、つい思ってしまった。未練がましいけど、あと少しだけ、幸せに触れていたかった。
 でも、それも明日の夜で終わり。
 長谷部さんに別れを告げる。それが、昨日一日考えて、決めたこと。長谷部さんのためにしなければいけない私の義務だから。


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