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オルゴールの夜

1 申し込み


 携帯の画面を何度見ても、メールの送信者欄にあるのは、長谷部和真という名前。初めて長谷部さんから受け取ったメールは、素っ気ないくらい短かった。
『こんばんは。メールありがとうございました。こちらこそ、よろしくお願いします。お休みなさい』
 家に帰ってから散々迷ったあげく、10時過ぎになってやっと送ったメールの返事がこれだった。私のメールが『こんばんは。これからよろしくお願いします。お休みなさい』だったから、釣り合ってると言えなくもなくて。
 4時間前の出来事は本当だったのかなと思ってしまいそうなくらい普通のメール。でも、その短い文の中の「これからよろしく」に含まれてるのは、単純な挨拶じゃなくて、今までの私にとって全然普通じゃないこと。だって、これから個人的なお付き合いをしましょうという意味だから。
 それを言い出した長谷部和真さんは、同じフロアで働いている営業の人で、私は総務だから、挨拶以外に書類のことで時々、話してはいたけど、プライペートな話をしたことはほとんどなかったはず。普通の大卒入社で、今年2年目で、私よりも五つ年下。そのくらいは誰でも知ってる。
 初めて2人だけで社外で話したのが今日だったのに、まさかその内容が交際の申し込みだなんて、思いもしなかった。総務の誰かのことを知りたいとか、仲立ちをしてほしいとか、多分、そんな話で、もしそうならあまり役には立てないんだけど、と思いながら、待ち合わせのカフェに行ったのに、長谷部さんは、とっても緊張した顔でこう言った。
「篠田さん、つきあってる人、いますか」
 もちろん、いない。でも、なんで長谷部さんがそんなこと、尋ねるの? 私につきあってる人がいてもいなくても、他の総務の子たちには関係ないのに。
 ふと、もしかして私がお局みたいな年だから、やっかみで何か言われると心配になったのかもしれないと思いついた。
「いませんけど」
「それじゃ、つきあってもらえませんかっ」
 このとき、私はごく自然に考えた。何か、書類のことでまずいことがあったのかな、それとも、総務の誰かに交際を申し込む段取りにつきあってほしいということかもしれない。それなら、こんな場所で待ち合わせたのもわかる。社内じゃ、言いにくいもの。でも、どっちだろう、と。
「何を、でしょうか……」
 だから、確かめたんだけど、私の答えに長谷部さんは見るからに焦った様子で、言い直した。
「用事ってことじゃなくて、彼氏がいないなら、俺とつきあって下さいっ」
 聞き直した方がいいかもしれないと一瞬、思った。だって、ありえないもの。年下とか、同僚とか、そんなこと以前に「つきあう」ということが。
 それなのに、私を睨むみたいに見つめていた長谷部さんの顔にだんだん不安が混じっていくのを見ているうちに、なんだか断っちゃいけないような気がしてきて。
 そして、ふと、章ちゃんがみづほさんに申し込んだ時もこんな感じだったのかもと思ったら、少しおかしくなって、つい、気が緩んだのか、魔が差したのか。それとも、他の何かだったのか。
「私でよければ」
 そう答えてしまっていた。長谷部さんはほっとしたらしくて笑顔を見せて、やっとコーヒーに口をつけた。携帯の番号とメールアドレスを交換して、カフェを出て別れた。
 家に帰ってからずっと落ち着かなかった。
 からかわれてるのかもしれない。でも、さっきの長谷部さんの真剣な顔は嘘には見えなくて。でも、どうして申し込まれたのかわからなくて。そんな堂々巡りの末に、メールを送った。
 携帯電話を閉じて、ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。
 もし、あの時のようなことになったらと思うと、本当は怖い。なんで受け入れてしまったのか、自分を恨んでしまうことになったら。
 でも、私の中の誰かが冷ややかに言ってた。
「幻でもいいじゃないの。もしそうなら、その時こそ本当に一人で生きる覚悟ができるでしょ?」 
 幻。
 簡単な朝食、会社で仕事、同僚との会話、手芸店や雑貨屋の寄り道。淡い黄色と黄緑色のファブリックで揃えた、好きな雑貨と自分が作った手芸品がある小さな部屋。一人暮らしも7年になると、毎日のペースが出来上がっていて、居心地がよかった。
 時々、実家に戻ると、弟夫婦や両親の賑やかさについていくのが大変なくらい。賑やかなのは嫌いじゃないけど、一人の静かな穏やかな生活が好きだった。ずっとこのまま過ごしていくのだと思ってた。あの時に泣きながら望んだ生活が、今では私の確かな毎日になってる。
 誰かと一緒に暮らす、恋愛をする。そんな日々は幻か夢のように見えて、同僚の女の子たちの一喜一憂は遠い世界のことだと思っていたのに、どうして、長谷部さんの言葉を受け入れてしまったのか。自分でもわからなかった。


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